先日福島県立図書館で色々調べた結果、塚のおおまかな位置が確認できた。
図は西会津史談5号・8号・西会津町史などを参考に地理院地図に自分で書き入れたものです
塚の周囲の林道は2000年代に新しく作られたもので当時は存在していません
足塚は松尾村・縄澤村と隣接する軽沢村との境界線(三方界)を兼ねているようでした
さらに塚の位置の高低差も見てみましょう
通常の埋葬であれば頭(首)を一番高い所にもってくるべきなのでしょうが
「逆さ」になっていることがわかる
神の裁定(鉄火裁き)に負けてしまったとは言えあまりにもむごすぎるとは思う
見せしめということなんでしょうかねぇ…
3か所にある清左衛門の塚を示す供養塔は裁判から308年後の昭和2年になって真福寺にある清左衛門墓碑と同時期に建立されたものということが判りました。
現在松尾集落では定期的な供養・塚の周囲の草刈りが行われているとか…
代わって勝者の縄澤村・次郎右衛門について分かったこと
次郎右衛門は鉄火の裁きを受ける前に自家の農事の補償を村に約束させていました。
「この鉄火の勝負に勝ったならば当年より縄澤村のある限り五月乙男乙女を村別に手伝います」
「馬鍬おろしは惣百姓より取り上げ申し上げます」
つまり田植えや田おこしなども村総出で補填するようにしていたわけですね
裁判から190年後(1809年)に成立された新編会津風土記という本によると
次郎右衛門より6代目の子孫になっても
「そのかみ次郎右衛門に約せしとて、村民いまに打ち寄りて農業を助くと云」
どれだけ時間が経っても村のために両手を犠牲にした英雄に共同体として報いる
ということが続けられていました。
現在机上調査で判ったことは以上になります
また何か判ればブログにて報告いたします
それではまた。
2021/7/16追記 実地調査しました。