館跡を見学した自分は国道397号線沿いにあるという寿庵堰を見に向かってみることにしました。
最初に到着したのが寿庵堰水系を含む胆沢川から分岐した水を分けるための円筒分水工
駐車場の地面にはどんぐりがびっしりと落ちてます
ここにも時代は新しいですが後藤寿庵記念碑がありました
傍に控える両名の説明は後ほど…
もうすぐ夕暮れの中日本最大級の円筒分水工に到着
現在は改修されていますが寿庵堰からの水もここで分岐しているようです
今現在は分水工が出来て水争いには無縁となりましたが二つの堰間で争いが絶えなかったとか…
分水工の周りをぐるぐると
旧寿庵堰まで歩きで向かおうとしたんですが結構遠いのでXRに再び乗車することにして取水口周りを見学
HPに載っていた住所はここなんですが実際には住宅の私道と田んぼの真ん中に案内されてしまいます
実際の位置はこちら
川から少し遠いような…?
案内看板があって助かりましたが言われなきゃわからないレベルでした
旧寿庵堰取水口に到着
急な足場を下っていくと…
案内看板があり左手に取水口が見えてきます
残ってるもんですねぇ
約400年前の江戸時代、工事は水を取り入れる胆沢川上流の金入道から始まり寿安はヤソ会の神父アンジェリスの訪問を受け、アンジェリスは、福原周辺の土地を見て「アラビアの砂漠のようだ」と驚き、かんがい用水の開発を示唆したと言われている。言い伝えによるとこの工事は、幾度ともなく洪水等により破壊されたこともあったが、外国人宣教師に学んだ寿安は、現代のクレーンのようなものを作り、それで大きな石を運び堅牢な石垣を築いたという
取水口の造りは玉石積み
取水口としての役割を終えて静かな遺跡と化していました
水路の一部が保存されています
辺りは暗くかろうじて扁額がわかるレベル
寿庵隧道と刻まれています
この寿庵堰や用水路をを当の本人、後藤寿庵は最後まで見ることはありませんでした
それは何故かというと…?
江戸幕府3代将軍・徳川家光の治世となると、キリスト教の禁止が厳しくなり、主君・政宗もその取り締まりを命ぜられたからです
寿庵を惜しんだ政宗は、布教をしない・宣教師を近づけないことを条件に信仰を許そうとしたが、寿庵はこの条件を拒否。堰の完成を待たずして伊達藩から逃亡してしまいました
その後、寿庵から用水土木技術を学んでいた弟子の千田左馬と遠藤大学の指導のもと、およそ17キロメートル分の工事が進められ、寿庵堰は寛永8年(1631年)に完成したという
彼は何処へ消えたのか────…?
その3に続きます