鉄火裁きのこと その2

f:id:gogonoyokoana:20201123033044j:plain

明るい雰囲気の神社でした

例の看板に気づくまでは…

blog.goo.ne.jp

http://www.mt-pedia.com/archives/2014/09/3040.html

dokushojin.com

↑引用・参考にさせていただいたHP・ブログ

日本神判史という本によると

一、事件の発端
 縄沢村・松尾村(現西会津町)との山野の境は不明確であった。特に綱沢山麓の横沢地区で通称「日影平」は、両村とも自分の村に帰属すると、お互いが長年に渡って利用して来ていた。
 ところが、元和五年(一六一九)一月二三日、縄沢村の村人が「日影平」で木々の伐採をしていたところ、松尾村の村人が来て中止を命じ、無理やり鉈を奪い取った。翌二四日、これを綱沢村に奪い返されたことに端を発し、やがて二月九日松尾村が「大勢の村人が集まって、法螺貝を吹鳴らし、采(さい)を振り回し」ながら山の境界「横沢谷」を踏み越えてきた。これを見た縄沢村は、最初二名の使いを現場に派遣したが帰って来ないので、更に三名を出したところ松尾村は、その使者達をも散々に打擲し、その使者の内、二名は今日・明日にも死亡するかもしれない怪我を負った。

縄沢村は会津藩に提訴し、藩では円満な解決を図るため、検使を「日影平」一帯に派遣して調査したものの、裁定を下すことはできなかった。

 このため会津藩は、これが解決策として同年七月に松尾・縄沢両村に対して
①いままで調査したが両村の境目は明らかにならない。この上は、「鉄火之可為勝負」によって理非を決することになり、敗者は「御成敗」を受けることになる。
②然し、双方とも山林に乏しくないのだから、藩としては「山境目令指図候て此通ニ境目相立」と論所の「日影平」を立入禁止区域と決めるからそれに従う方法もある。
という中世的な鉄火裁判と「山境目令指図」とする近世的な調停案の二つを提示した。
 然し、松尾・縄沢両村は、この藩の調停案には納得せず、最終的に「敗者は御成敗」の処分も覚悟の上、神判「鉄火取り」の裁きによって理非を決定する方法を選択したのである。

 

生活に絶対必要な山林の境界線を巡るムラとムラの争い…

お金では解決できない争いで藩も介入しなんとか治めようとしたもののムラとムラのプライドがそれを許さなかったのでしょうか…

f:id:gogonoyokoana:20201123040327j:plain

 

看板によると

「縄澤村の代表になる決意をした次郎右衛門は今後農耕不能になるため、

自家の農事の補償を村に約束させました。

一方、松尾村の代表は屈強な清左衛門。

同年八月二十一日。

双方礼服を着用して手に熊野牛王(ごおう)の護符をささげながら神前にすすみ、

役人が炎の中から取り出した鉄火を受け取りました。」

 

その3に続く